こんこん録

きつねが覚えたての日本語で書いてます。睦奥宗光の『蹇々録』をもじったものの内容は関係ない。

仕事をしている話

表題の通り引っ越しをした。旧居とほぼ同じ区内で最寄駅も一部重複がある距離である。ただし広さが文字通り2倍になった。以前の家は大人2人が住むには非常に手狭でほぼ犬小屋並みだったが、この家の広さもまた極端で、4人家族でもなんとか住める程度の面積がある。引っ越しハイになったので浮かれてルンバや食洗機を新調した。

しかし、日によってムラがあるものの最近は1日14時間くらい仕事をしていることが増え、土日もなんだかんだ仕事をしたり出かけたりしているので、せっかく引っ越した家もほぼ寝に帰るだけになってしまった。料理もする時間がないので食洗機の出番はほとんどない。

このご時世に仕事の量がなんの自慢にもならないことはわかっているのだが、これに関しては私にもっと能力があれば片付くという性質の問題ではなく、上司が悪いというわけでもなく、圧倒的に人が足らないために止むを得ず発生する事象なのでどうしようもない。私自身もいつまでも育成される立場に甘んじるわけにはいかないので経験値を積むことを重視したい気持ちもあり、任せてもらっている業務は基本的に面白いので、これといって会社に文句を言う気になったことはない。あまり人にわかってもらえない思想かもしれないが、私は働き始めた時期が人より遅かったことや新卒カードをちゃんと切らなかったことを負い目に思っている面があるので、今現在の自分が働き者として見られていることや、それによって着実に成長していることを現時点では望ましく思っており、現場に人員がいないせいで自分の仕事が増えたことも、本音でいうとあまり問題だと思っていない。ただしそれはこの瞬間の自分の感覚の話であって、サステナビリティとしてどうかというのは全く別の問題である。また、当社は個々人の裁量でそれなりに自由に休めたりもするので、働き方に関して理不尽なストレスはそんなにない方だと認識している。私は自分の仕事が効率化できたらその分別の仕事をするだけなので、仕事を減らすことを目的とした効率化にもそれほどの意義を感じていない。

働き方改革がトレンドとなる中、働くのが辛くて仕方ない人には焦点が当たるようになってきており、一方で一部の業界では多忙であることそのものがちょっとした自慢になったりもするが、単に働くのが好きで仕事を通じて健全に成長したいと思っている人にはあまり出会うことがないのを少し残念に思っている。社内以外の場でそういう人と出会ってみたい。

なんでもいいから書くのが大事なのではないかと思い始めた

このブログを開設して5年以上が経つけれども記事は稀に書いては消したりしており一向に伸びる気配もない。消す理由は単に自分の過去の文章を読むのが気恥ずかしいからなのだが、そもそも記事を書く頻度が低いのは由々しき問題だと思っている。私はそもそもまとまった長い文章を書くのが苦手なのである。文章を書く習慣自体は昔からあったのだが、長さとしては原稿用紙1枚くらいが限界で、それ以上のものを書こうとすると筆が急に進まなくなる。

 

ツイッターにハマったのは2010年ごろからなのだが、ハマった理由はひとえに「140字しか書けない」というメディアの特性の相性の良さによるところが大きいと思う。そしてツイッターに慣れてしまって短い文章でのアウトプットに満足する中で、あえてアカウントを分けてブログを書くとなると、ブログでなければならない必然性をそこに求めるようになり、書くことのハードルが上がる。すなわち「ブログとは長文を書くにふさわしいテーマについて書くべき場である」と思ってしまうということである。

 

しかしツイッターでのアウトプットに満足しているときっとこれからもずっと140字を超えるものが書けなくなってしまうので、まずは一定の長さの文章を量産するところから始めるべきだろうと思い、この記事を書くに至った。たしか「クリエイティブであるためにはまず多作であることが大事」みたいな中国の故事か何かがあったよねと思い、ここで引用したらかっこいいだろうと思って検索したけどヒットしなかった。残念。

 

それにしても書きながら気がついたのだが、ツイッターでは常体と敬体を分けずにそのときの気分で混ぜたりしているものの、ブログではどちらかに統一した方が良いのだろうなと思う。しかしこういうことを考えているからハードルが上がってしまうのだろうし、あえてそこに注意を払わないでおくのもアリかもしれない…

杏っ子

下記はドラフトに残っていた2年ほど前の記事である模様。再掲。

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ここ最近の余暇はスポーツにばかりのめり込んでいたのだが、先週末に怪我をしてしまった。

大して深刻ではない(手術等は要らない)が、いつ治るかわからず少し不安なので、しばらくは引きこもって「精力的におとなしく」していようと思う。ちょうど梅雨に入る頃であるし。

この3日間で映画を5本観た。『赤い殺意』『けんかえれじい(2度目の鑑賞)』『夢二(これも2度目)』『秋立ちぬ』『杏っ子』。こうしてみると私は成瀬巳喜男という人がけっこう好きなのかもしれない。成瀬のいくつかの代表作は率直に言ってあまり面白いと思えなかったが、比較的地味な作品の持つ特有の深みは何度も味わいたいと思える。成瀬を評して「なんとはないことが積み重なっていく良さ」と言った人があったように思うが、私もまさしく同じ感想を抱いている。
 
杏っ子』は、偉大な作家の父を持つ幸せな娘・杏子が恵まれない結婚をする話で、原作は室生犀星であるが、小説のごく一部だけが抜粋され、映画化されている。杏子を演じているのは香川京子
 
この作品で最初に印象に残ったシーンとして、ピアノのあるお家が「幸福で何不自由なかった娘時代」の象徴として出てくること、そして後に夫婦の生活が破綻したあとにそのピアノを手放してしまうこと。
私は香川京子のプロフィールはあまり詳細に存じ上げないのだが、杏子がピアノを弾くシーンを観て、仮に彼女にピアノの素養がないのだとしたらピアノを弾く演技があれほど自然にできるのはすごいことだと思った。ピアノを弾くシーンは昭和初期の映画でもいくつか覚えがあり、原節子も何かの作品で弾いていたと記憶している。『けんかえれじい』でも道子がピアノを弾くシーンは重要なものとして出てくる。香川京子の演技はその中でも最も、力んだようなぎこちなさがなく、良かった。
 
杏っ子」というなんとも無邪気で素朴なタイトルはいかにも室生犀星の言葉だが、映画と小説とに連続性はないと言っておいた方がいいかもしれない。小説はどちらかというと私生児として育てられた犀星の自伝的な意味合いが強いものだし、杏子ではなく父・平四郎の一人称視点から語られる。平四郎は映画ほどに善人でもなければ良い父親でもないのだが、それは別の話として脇に置いておきたい。
 
杏子は懐の深い裕福な両親から大切に育てられた娘である。近隣の家の息子の母親が、「宅の息子には縁談があるのでおたくのお嬢さんと付き合ってもらっては困る」と苦情を述べに来たあと、平四郎は「お宅の息子さんが大切であるのと同じように、私の娘は大切な子であるのだ」とやり返す。作品の中で平四郎は良き親であり寛大な人物である。
そうして慈しまれて育った杏子の生活は結婚によって一変する。夫は平四郎の才能を憎み、平四郎に醜悪な嫉妬心をぶつける。平四郎が偉大であるがゆえに、彼はいかにも卑屈な人物として描写される。
杏子はそのような夫を愛せず、疲弊し、頻繁に実家に戻るようになる。現在の境遇と過去の幸福とを杏子自身も対比させているようなところがあり、夫は酒浸りになり、夫婦生活は金銭的にも破綻を迎えてゆく。ごく短い映画であるが、一人の女性が経験する家庭の幸福と家庭の悲劇とがともに描かれる。
夫の卑屈さや暴力性は恐怖感を伴うというよりもむしろ弱い人間の哀れさを示すようなものであり、成瀬はこういった弱くてどうしようもない人間を本当に巧みに描くのだなあと思っている。
 
フィルムの状態が少し、というかそこそこ悪いので、生で観ることのできる機会があってよかった。